古都鎌倉(3) 「若宮大路と段葛」 .
写真:二の鳥居の若宮大路と段葛(だんかずら)
「段葛」を通れるのは「神」の他、将軍かその後の北条執権に限られた・・、
鎌倉市中で鮮明に気付くのは山地多く、入組んだ道が多い中、市街の中央を幅広い一直線の道が、由比ガ浜から八幡宮境内まで延びていることである。
まるで市内を二分しているようでもあり、この真っ直ぐに延びる参道を「若宮大路」と称している。
「若宮」とは先にも記したが、八幡宮が新規に鶴ヶ岡に移遷されたことである。
他にも平安京の時代から、ここ鎌倉に新幕府を開いたこと、そして頼朝自身この地で武家の棟梁になったこと、等々と言われる。
頼朝自身も、余りに符号した命名に満面で笑(ほ)くそえんだという。
JR鎌倉駅前を少し出ると、若宮大路である。
この辺りが概ね大路の中間地に当たる二の鳥居がある。
ここで特徴的なのが、ここから一の鳥居まで、つまり宮の境内前までが大路の中央部分が幅4~5mくらい一段と高い通路になっていることである。
この部分を「段葛」と称している。
両端を石組みしてありツツジの植え込みと桜並木になっていて、むろん今は歩行者専用である。
幅に関して正しくは、一の鳥居側(宮側)は3m、二の鳥居側で5mあり、つまり、宮側が狭くなっているのである。
これは、人の目の遠近、錯覚をねらったものだといわれる。
普通、大きめな社宮には森に囲まれた長い参道がある。
社は異界の地に在り、人々がお参りするのには、この間に邪気・邪心を祓い清心敬虔な気持ちで参拝すべきものである。
だが、若宮参道は短く、周辺は人が住み着き、往来する俗界がすぐ近くにあったが為、より長く、遠方であるとを錯覚させたともいわれる・・?。
「段葛」の造作については諸説あるが・・、
主として北条政子が懐妊したとき、祝事として行ったというのが一般的である。
又当時、大路周辺は低地で大雨が降ると泥道になる、そのため高貴な方は一段高所を通るためとも云われる。他に祭事の折の神の通り道、とあるが「神のほかは、段葛を通れるのは将軍かその後の北条執権に限られた」とも云われる。
源平合戦の「壇ノ浦の戦い」で入水に失敗し、捕虜になった平家の大将・「平宗盛」が鎌倉へ移送された時、この段葛をスゴスゴと通ったという。
宗盛は官職では従一位内大臣にあったため、一応の礼をつくしたのだろう。
因みに、この時鎌倉へ護送してきたのが「源義経」であったといわれる。
任務が終えた後、義経自身は「腰越」の地に留まるよう頼朝より命じられている。
そして実兄・頼朝に面会も叶わず、宗盛を再び引きずれて京へ戻る破目になる。
この時期、頼朝から見れば義経は、宗盛より政治的に罪人だったのだが、宗盛はむろん義経自身未だそこまで気が付いてなかったらしい。
義経は以降没落の道を歩むことになる、歴史の皮肉である。
後の義経の段において、いずれ更に詳しく述べます。
次回は、「大銀杏と実朝」
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