古都鎌倉(2) 「鶴岡八幡宮」 .
写真:八幡宮境内略図と同舞殿(右上が本殿)
鎌倉の中心は、やはり源氏の総鎮守・「鶴岡八幡宮」であろう。
「村の鎮守の神様」の八幡様は全国あまねく存在している。
本社は大分の「宇佐八幡宮」で、大和朝廷も崇敬したといわれるほどの古き時代の神社である。
最初の遷宮は、奈良の都が創建された時、東大寺境内に守護神として「八幡宮」が創設され、また京都に平安京がおかれたときは石清水(いわしみず)八幡宮が祭祀された。
いずれも遷都の守り神(御神体)として創置された神である。
平安期になると八幡信仰という形で全国に派生し、平氏や源氏の武家が発祥するにおよんで、武勇の神様として更に急速に全国に広がった。
特に「南無八幡大菩薩」と唱える源氏の守護神として篤く奉った。
平安中期、陸奥の国で起こった動乱「前九年の役)」を鎮めるため源頼家が、又、「後三年の役」では嫡子義家(八幡太郎義家)が奥州に出向く際、京・石清水八幡宮に戦勝祈願したという。
陸奥の国を治めた頼家は、岩清水八幡宮を鎌倉・由比ガ浜の郷に勧請し、社殿を創建する。(現在の元八幡)
それから凡そ100年後、源頼朝は源氏の棟梁として鎌倉(鎌倉幕府)に拠点を置き、鎌倉の地に鎮護神として「鶴岡八幡宮」を大題的に祀った。
つまり、この八幡宮は宇佐神宮の孫にあたるのである。
そして、由比ガ浜より移ったこの宮を「若宮」と称していた。
源頼朝が,この高台に社殿を作った時は、既に平家は滅亡し、全国60余州を平定した時であった。
翌年には、征夷大将軍になり、まさに頼朝の絶頂期であった。
「鎌倉」はこの頃は既に京都と並んで政治、文化の中心となっており頼朝は八幡社同様、関東の総鎮守となって崇敬されていた。
以来、鶴岡八幡宮は常に鎌倉のシンボルであり、幕府の儀式や行事はすべてここを中心に行われた。鎌倉の八幡様は、山を背おい、海に向かって晴れやかに堂々としている。
普請奉行は近郷の御家人・大庭景義に命じたという。
大庭は、大社殿を造営するにあたり、宮大工がこの辺りにはいないことに気がついた。
なにせこの頃の相模の国は文化の面は未発達で、巨大建造物を造る棟梁等はいるはずもなかったのだ。
急遽、武蔵の国に浅草寺、門前町の宮大工を呼び寄せ、なんとか落慶させたという。
逸話を一つ・・、
2005年度のNHK大河で「義経」が放映されたが。若宮の上棟式の折、居並ぶ御家人衆の前で頼朝は、『義経・・!!これから宮棟梁に馬を寄与する、・・馬引けー・・』と号令した。
義経は一時赤面し躊躇した、
再び頼朝は声を発っした。義経自身は、「吾は、源氏の御曹司であり頼朝は実兄の兄弟である、家人なんかとは身分が違う」と思ったに違いない。
義経は、頼朝と御家人衆の生死を繋ぐ特殊な関係などには思考が及ばなかった。
頼朝と義経の思考の差異が、やがて兄弟間の軋轢を生み奥州の藤原で終生をむかえる悲劇に発展するのだが。
この事は、オイオイ・・。
次回は、 「若宮大路と段葛」
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