湘南紀行(12)小田原 「小田原城」 .
写真:現在の「小田原城」、城内は歴史館になっている。
小田原市は酒匂川の流れる肥沃な足柄平野を擁し、西部は箱根の連山に連なる日本でも有数の観光の拠点、南は相模湾に面した漁業の地であり、丘陵地帯は曽我地区の梅の大産地でもある。又、小田原は「小田原城」に象徴する、歴史の町であり、一時代は関東地方を支配した要衝でもあった。
中世の頃、「小田原城」は元々は相模国の豪族・土肥氏一族の居館であった。
土肥氏の棟梁は実平(さねひら)で近隣の湯河原に本館を構えている。平安末期の治承4年(1180)石橋山合戦で頼朝の危機を救ったのが土肥氏一族であるった。
伊豆で平氏打倒の旗を挙げた源頼朝は関東へ進出し、石橋山(小田原市石橋)に陣を張った。この時土肥実平は郎党と共に参戦している。
頼朝蜂起の報に接した大庭景親は武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣した。
平家方は三千余騎、頼朝方はわずか三百騎、数の上でも圧倒的に勝る平家方に惨敗した頼朝は地元地域に詳しい土肥実平の案内で大洞(しとどのいわや)に一時、身を潜めた。
敵将・梶原景時に発見されたが、彼の温情的配慮により一命を得た頼朝は、その後真鶴岬より安房に脱出した。 開戦時、三浦の庄を支配する三浦一党が馳せ参じるが、酒匂川の増水で参戦出きず、頼朝敗戦に繋がったといわれる。
その後頼朝は千葉・安房で陣を立て直し、再び反平家の旗を挙げる、そして鎌倉開府へと導く。
土肥次郎実平の嫡男遠平が、この時父に劣らぬ功績を上げ、戦後、早川荘の総領所になって小早川村(小田原市)に築城したのであった。
因みに、遠平は源頼朝が守護・地頭を置いた時に小早川と名乗り、旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。後には御存知、毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老にまでなる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと)
室町時代には、この地方に大森氏が登場する。
大森氏は鎌倉後期の戦乱時、箱根関所などを実質的に采配し、更に地域経済を掌握する支配者としての立場を鮮明にしながら小田原に根拠を持ち、小田原城の築城を開始し、当初の小田原城の輪郭が出来上がったといわれる。
1495年、伊豆を支配していた北条早雲(後北条の始祖)の奇襲によって大森氏から小田原城を奪う。以来、北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名・後北条氏(鎌倉期の北条家とは異なり関連性はなさそう、紛らわしいので、あえて戦国期の小田原・北条を後北条と称している)の五代95年にわたる居城として南関東の政治的中心地となった。
この時代つまり戦国期、小田原城の攻防は二度起きている。
永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を、更に同12年(1569)には武田信玄の攻撃を受けるが、いずれもこれを防いでいる。
小田原城が難攻不落の名城の名をほしいままにした事件であった。この内、小生の住む厚木市郊外から愛甲郡愛川町にかけて戦乱が生じた武田信玄との攻防について述べてみる。
当時、関東の小田原周辺では武田、北条、今川の各氏が覇権を争っていた。
そして「武田信玄」は小田原本城を攻略すべく作戦をたてていた。
永禄12年(1569)9月、碓氷峠を越えて上野国(こうずけ・群馬県、この時期この地域は武田方の勢力圏であった)に入り、武蔵国の支城・鉢形城(埼玉県寄居町)の北条氏邦、さらに滝山城(八王子市)の北条氏照を攻め、10月には2万の軍勢をもって相模国の小田原に到り、北条氏の本城である「小田原城」を包囲した。
武田軍は北条軍を城から誘き出して野戦に持ち込みたかったが、小田原城では城の堅固さを活かし、徹底した籠城作戦をとった。これにより武田勢は攻めあぐねて数日を費やし、遂には力攻めを諦めて撤退することにしたのである。
武田勢によって領内を荒らされた北条氏照・氏邦の兄弟は撤兵する武田勢が、退路として三増峠(小生住地の隣町・愛甲郡愛川町)を通ることを知って追撃奇襲戦(さきまわり)の計画を立てた。
武田勢が三増峠にかかったところで、峠道周辺に布陣して待ち伏せしていた北条勢が武田勢に対して一斉攻撃を始めた。
一時劣勢だった武田軍は陣形を立て直し、両翼から北条勢に襲いかかった。野戦に長けた武田軍によって北条勢は大崩れし、氏康・氏政父子の援軍を待たずして敗走を余儀なくされた。
その犠牲者は3200余人という。武田勢にも900人ほどの犠牲者が出た。この戦を「三増峠の合戦」と呼んでいる。
当時の小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構えを持ち(總構・これは後の豊臣の大阪城の惣構えよりも広大であるという)、それまで類を見ない大規模な城郭へと拡張され、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇っていた。
さすがの武田信玄もこの堅城を誇る小田原城を落とすことは出来なかった。
尤も信玄は、この上野の国からの武蔵、相模の国への侵入は威力偵察が主たる目的だったともいわれ、三増峠の合戦でお互い損失はあったとはいえ勝敗は双方痛み分けが妥当ともいわれる。
時代はやや下って戦国末期、織田信長に代わって豊臣秀吉が天下を掌握しようとしてた最終時期、遂に北条方と豊臣方は対立する。
大阪城の秀吉は小田原北条の当主氏政に豊臣政権下に納まるよう説得し、大阪城に登城して配下の礼を尽くすよう数度にわたって要求したが氏政は聞き入れなかった。
秀吉は、その「意」無しと見ていよいよ戦線を開く。
天正18年(1590)豊臣軍は水軍1万余を含めた、総勢22万人を超えるという空前絶後の大軍に加えて米20万石を確保し、更に黄金1万枚を用意し、兵糧面においても万全な態勢で臨んだ。 それに対する北条軍は5万6千ほどの兵力でしかなかった。
軍勢的には全く相手にならないほどの違いである。
秀吉軍は東海道を下り箱根湯元に到着、いよいよ小田原城の包囲にかかるのである。
その小田原城であるが、
先の上杉、武田氏の攻防でも落とすことが出来なかった極めて堅牢なこの大外郭の効果はやはり絶大で、さすがの秀吉軍も包囲はしたものの容易に城を落とすことができなかった。
そして、そのことは秀吉は熟知していた。
そこで秀吉は得意の長期戦、即ち兵糧攻めをすることにしたのである。
小田原城の背後に、あの一夜城と言われる「石垣山城」の築城にかかり、自らは愛妾の淀殿を呼び寄せ、諸大名にも妻を呼ばせるなどして長期戦に臨み、小田原城中の兵糧の減少、戦意の喪失を待ったのである。更にその一方で秀吉はそつなく、各地に散らばる北条氏方の50にも及ぶ支城を各個撃破にかかった。
機は熟したと見た秀吉は参謀・黒田官兵衛孝高らを使者として送り降伏を勧告させ、その一方では総攻撃を命じるなど、硬軟とりまぜた戦術で北条氏を揺さぶったのである。
城内では徹底抗戦か、降伏かを評議したが中々結論が出ない、(このことが一般に「小田原評定」という語源になった)しかし、周辺情勢が次第に悪化する中、遂に降伏に至ったのである。
秀吉は氏政と氏照の2人を主戦派と見なし切腹を命じ、これにより初代の北条早雲以来およそ百年にわたって関東に覇を唱えた戦国大名・小田原北条氏は滅亡したのである。
戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は側近・大久保忠世を小田原城代に置いた。
以後、一時期の中断を除いて明治時代まで大久保氏の小田原藩が小田原城を居城とした。現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。
現在、小田原城址は小田原城址公園として公園化され、復興天守が戦後に建築されている。
城内は主に北条家の博物館になっていて、天守閣の頂上からは太平洋や笠懸山の石垣山城祉がよく見える。
次回、「日本の世界遺産・平泉」
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