古都鎌倉(24) 「法難の寺・龍口寺」 .
鎌倉唯一の「五重塔」
満福寺を江ノ電の路面に沿って行くと、間もなく大きな十字路に出る。
この辺り「江ノ電・江ノ島駅」や湘南モノレールの「江ノ島駅」に近く、かなりの賑わいを見せている。往時とはいえ、この地に、おどろおどろした龍ノ口刑場(鎌倉時代より刑場として史書に登場する)が在った事態、想像するに難い。
「龍口寺」(りゅうこうじ)はこの十字路にあった。
階段の正面に堂々たる本堂があり、境内には立派な日蓮上人の墓廟と立像がある。また鎌倉唯一にして県内最古の五重の塔も聳える。
山号を寂光山と称する、これは法難に際して上人が「龍の口に日蓮が命をとどめおくことは、法華経の御故なれば、寂光土(仏のいる極楽のような所)ともいふべきか」と申したことに由来しているという。
鎌倉時代、日蓮聖人が幕吏の手によって処刑寸前のところを奇跡により危うく難をのがれたという龍の口刑場跡に建立された「霊跡寺院」という変わった名が付いた寺院でもある。
霊跡寺院とは、日蓮聖人一代の重要な遺跡及び宗門史上顕著な沿革のある寺院を霊跡及び由緒寺院とし、その伝統により大本山または本山の称号を用いている。
五重の塔、大本堂は「神奈川建築物百選」に選定されている。
「法難」・・仏教国の日本にとって、法難という用語がある。
広義には仏教に対する弾圧事件のことであり、仏法にとっての災難あるいは難儀であるため仏教側からの用語として、このように呼ばれる。
弾圧する当事者側からでは、廃仏という用語がある。端的な例は、戦国時代の織田信長による「比叡山焼き討ち」や明治新政府の神仏分離政策によって起こった廃仏毀釈運動(明治初年の仏教排撃運動、1868年に神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などが起きた。)である。
狭義に解すると「仏師が、仏法教法を布教する際に受ける迫害」のことでである。日蓮は、日蓮宗の布教を勧めるのに個人的に迫害を受けたことから、狭義の意味の法難かもしれない・・?。
「日蓮」が各地で日蓮宗の布教活動を行う際、数々の法難を受けている。
主なものに松葉ヶ谷法難、伊豆法難、小松原法難、龍ノ口法難、佐渡法難がある。
日蓮が鎌倉にきて初めて道場として庵をむすんだのが松葉ヶ谷の岩窟(現、材木座、安国論寺)で「立正安国論」が書かれた地という。
この立正安国論は、鎌倉幕府に治世の建白書として提出された。
その約一ヶ月後、念仏宗の僧および信徒が徒党を組み、松葉ヶ谷の草庵を襲撃した、この事件を「松葉ヶ谷の法難」という。
その後も日蓮は布教活動を続け、幕府および関連者にも建白の意義を申し立てるが聞き入れられず、遂に捕らえられ、ここ腰越の龍ノ口刑場にて処刑される破目になる(龍ノ口法難)。しかし天運によって一命はとりとめ、佐渡へ流されるのである(佐渡法難)。
余計だが・・日蓮は佐渡への途中、小生・住地の近く厚木・「依知」の妙純寺、蓮生寺に滞在していたといわれる。
鎌倉期になって、「鎌倉仏教」と言われるほど多くの仏教宗派が創生している。
それ以前は奈良朝においては聖徳太子を中心に、社会秩序の確保と国家の安泰に向 けられる国家仏教の性格が強く、この時期、国分寺の造営など盛んに行はれた。
平安仏教では,最澄の天台宗は比叡山,空海の真言宗は高野山など,主要寺院が山岳に営まれ、政治から一定の距離を置くことを意味した。
仏教教団が国家からある程度の独立性を確保したといえる。
そして鎌倉仏教は法然の浄土宗 親鸞の浄土真宗 一遍の時宗 栄西の臨済宗 道元の曹洞宗 日蓮の日蓮宗と多彩であるが、いずれも各々の特徴が有るが、総じて、これら仏教の教義目的は「個人や民衆の救済」を主としたものであった。
ただ、日蓮の日蓮宗は仏教では珍しく他の宗派に対して排他的性格を持ち、特に念仏仏教(浄土宗)を激しく攻撃した。
彼の著に代表的な「立正安国論」がある。
これは「法華経」のみが末法(仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る時期、日本では1052年(永承7)に末法に入ったとされる)における絶対の救いであり、「南無妙法蓮華経」(全身全霊を尽くして法華経に従うという意味)という題目のみを唱えるだけで仏になることができると説いた
又、打ち続く天変地異や社会不安が起きた結果、正法である法華経によって国が救われ、安泰になると確信して書かれている。
そしてこの著書は時の執権・北条時頼に建白(政府・上役などに自分の意見を申し立てること)の意味を込めて上呈された。
この時期、幕府、北条家は主に禅宗(臨済宗)を教義とし、大衆も浄土宗をはじめ自由宗派を信仰していたが、日蓮の排他的独善性の教義には戸惑い、曰く、法難を浴びる結果になっていった。
小生、昨秋東日本周遊の際、千葉の安房小湊(現、鴨川市)を訪れている。
旧国道沿いに名所「鯛の浦」や「誕生寺」があり、この地が日蓮大聖人の誕生の地である。 12歳のとき、すぐ近くの清澄寺へ入り、16歳前後のとき出家得度している。
比叡山や高野山で勉学に勤しみ、その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)が釈迦の本懐であるとの結論に至っている。 清澄寺に帰山後、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め、立宗開教(現;日蓮宗)を確立した。
鎌倉へ入って松葉ヶ谷に草庵をむすび、伝道活動を開始するが、この時期、他宗徒によって法難をあびている。(松葉ヶ谷法難)。
弘長元年(1261年):幕府によって伊豆の伊東へ流罪(伊豆法難)。
文永元年(1264年):房州小松原(現在の千葉県鴨川市)にて法難。
文永8年(1271年)、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越・龍ノ口刑場(現在の龍口寺)にて処刑されかける(龍ノ口法難)。
しかしこの時、刀が段々に折れ曲がるという怪異現象が発生し中止、そのまま佐渡へ流される(佐渡法難)。
3年後、文永11年(1274年)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、蒙古来襲の予見を聞かれると、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」と予言し答えたという。その後身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。(今の身延山久遠寺) そして、日蓮が予言した5か月後に蒙古襲来(文永の役)、 更に、弘安4年(1281年)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)している。
1282年、武蔵国池上(現在の池上本門寺)61歳で死去(入滅)。
入滅の際に大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。
立正安国論・・他、著書多数。波乱万丈の大宗教人といえる。
次回は、 「常立寺」
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