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古都鎌倉(23) 満腹寺「義経の腰越状」(2) .
肉親であり、兄弟である頼朝、義経が何故不仲になったのか・・?、その理由として世間では諸々言われてはいるが、それらの諸説について列記してみた。
『讒言(ざんげん)説』: :頼朝は、突然奥州から現われた義経に疑念を抱き、代官・梶原景時にその行動を監視させた。一の谷の合戦以降、梶原景時の讒言(人をおとしいれるため、事実を曲げ、また偽って目上の人にその人を悪く言うこと)が義経に対する憎悪をさらに強めたといわれる。
『藤原隠密説』: :西の平家と北の藤原家に挟まれた鎌倉・頼朝にとってはどちらも脅威であった。そこへ藤原家の家人「佐藤忠信・継信」を引き連れて義経がやって来た、義経はもしや藤原家の隠密では・・?と疑念を持つ。
『戦功嫉妬説』: :余りの戦技、戦術、戦略(本当の意味の戦略があったかどうかは疑問、戦略は施策、政策、政治が絡む幅の広い意味で、むしろ頼朝にあった)上手に、ねたみ、恐れをなした。
『任官嫉妬説』: :京にあって公家、法皇と頻繁に接触し、勝手に任官した。
『私情公情説』: :これは、お互いの思想、思考或いは哲学の相違であって、義経は身内、知人、周辺人に親しく、現実温情主義であった。頼朝は近隣御家人の組織均衡を重視し、未来志向主義で、遠く将来を注視していた。
『兄弟不感説』: :義仲、義経、範頼と次々兄弟を抹殺してゆく、ここには兄弟という肉親の情は無く、善悪功利要不要の原理が先行する。この時代は親子といえども平気で争う時代であったのだ。
『義経脅威説』: :義経の行動思考に劣等感を抱き、次第に脅威に感ずるようになる。又、奥州藤原氏が原因かもしれない。
『御家人謀略説』: :特に北条氏は義経抹殺を望んだ。頼朝の係累がいなくなればなるほど北条氏の天下が 近くなる、現に二代頼家、三代実朝は北条氏による謀殺説がつよい。
『源氏不称説』: :義仲 討伐以降、頼朝は身内、親類、係累に対して公式な立場では「源・源氏」を称えることを禁じていたようだ、これに対して義経の文面は度々「源」を用い、現に「腰越状」には末尾に「源義経」の署名がある。 これには頼朝は相当に不快感を示したらしく、さらに彼自身、源氏称には余りこだわってなかったようだ。
『後白河法皇の策謀』: :平清盛の京での実権から、東国・鎌倉での頼朝の覇権に到るまで後白河法皇は院政を満足に執り行う事が出来ず、不満が生じていた。こんな時期、義経に官位を授けたことから、兄の頼朝と軋轢が生じているのを知り、間に入って更に策術を弄し、兄弟の溝を深くしていった。義経はその術中に完全にはまってしまった。 頼朝に云わせれば、後白河法皇は「天下の大天狗」とやらであろう。
義経、頼朝は育った環境も違っていた。
義経は幼少には京・鞍馬寺にあり、成人して遠方の地・奥州藤原家にあって人情の機微に触れ、現世に依存してゆく。
一方、頼朝は伊豆の蛭ヶ小島で捕虜の身であるが、勉学、信仰に勤しみ、時には都の情報等を耳にしながら平家の状況など覗っている。
近江の佐々木庄を地盤とする近江源氏嫡流の佐々木氏は伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく常時派遣し、頼朝旗挙げの際にも参画している。
頼朝を育てる比企家の乳母の関係からも、何にかと知らせが入ってくる。その武蔵野国比企家からは比企能員(ひきよしかず)が通っている。
又もう一人の乳母の関係は京の公家・三善康信である、康信は流人の頼朝へ毎月三度も手紙を出し、そこには京の情勢が豊富に書かれていたという。
又、流人の生活を過していた頼朝を京の僧・文覚が訪ね(伊豆に流されてきたらしい)、平氏打倒の挙兵を勧めている、当時、頼朝は無視しているが、腹に一物はあったろう・・?。
頼朝は伊豆の空の下で、常に情報を得ながら、頭の中は遠くを見つめ、未来の構図を描いていたし、その中から確乎たる信念が芽生えていたに違いないのである。
義経は温の人、頼朝は冷の人と言われるが、しかし、新たな時代を切り開くには冷徹さが必要なのである。
上に立つものは己の権力を強固なものにしないと、凡そ近世以前の政権など成立するはずもない。
何事も話し合いで仲良く、などというのは現代人の妄想に過ぎないのである。
頼朝自身は直接関与していないが、過去の平安末期の京の都では朝廷、貴族、武士団が相争うようになり下克上の世界が展開していた。
その頃、保元や平治の乱が起こり、源氏(源義朝)や平家(平清盛)の武士団が台頭し、貴族中心の社会が目に見えて衰退してゆくことになる。
その「保元の乱」においては、頼朝の父・義朝と義朝の父(源為義、頼朝の祖父)や義朝の兄弟(頼朝の叔父)同士の肉親同士が争っている。
そして、義朝は敵方についた父・源為義と兄弟は皆、義朝たちの手によって処刑されているのであり、これらの事は、頼朝は当然知っているのである。
当時は、親兄弟といえども平気で争い、殺しあう、そうゆう時代でもあったのだ。
後の世に下り、新しき時代を切り開いた人物、織田信長、徳川家康、明治新政府を磐石たるものにした大久保利通、いずれも冷徹さを持ち合わせていた。
頼朝が義経を生かしておけば、必ずや義経を利用して叛乱を企てる輩(やから)が現れただろうし、また義経自身が叛乱を起こしたかもしれない、つまり、このような時代なのである。
それに何よりの誤解は「義経に落ち度が無く、無実の罪で一方的に死に追いやられた」と、いくら本人に悪気が無かろうと、彼自身の思い込みや官位を勝手に受けたことは頼朝や関東武士団が苦労を重ねて築き上げつつあった鎌倉幕府を一挙に瓦解しかねない危険な行為、罪深い行いだったのである。
嘆涙の「腰越状」を読むに当たって、頼朝は情に流されず、確乎たる信念のもとに冷徹な『断』を下したのであった。
次回は、「瀧口寺」
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