古都鎌倉(17) 「東慶寺」 .
写真:東慶寺庭園参道
東慶寺「御堂」
円覚寺から道路を挟んだほぼ正面に「東慶寺」がある。
通称、男子禁制の尼寺で「駆け込み寺」又は、「縁切り寺」として知られている。
平家が「壇ノ浦」で滅亡し、鎌倉にて頼朝が源氏武門の棟梁として、いよいよ日本に武家政治を執行するようになる。
平安期よりの土地所有制度は「荘園」と称して、朝廷、又は公のものだったが、この時期より「一所懸命」の示すように、土地は私有財産として認められるようになった。
当然、領有権や地境いなどの争い事で問題が生ずるようになる。
そこで頼朝は「問注所」なるものを設置する、いわば、訴訟の受理などを扱った幕府の裁判所であった。
では、家庭内の騒動はどうだったか、又、男女間や夫婦の問題では・・?、
当時の武家社会では男尊女碑が徹底していて、女性が社会に対して発言する機会など無かった時代である。
『妻が三下り半』と言う、今ではあたりまえの離縁状、離婚届であるが、武家封建社会では、夫は「三下り半」で簡単に妻を離縁することが出来たが、妻からの離婚の請求は一切許されなかった。
そこで女性は「東慶寺」に入り、女性をも尊重し、優位に話を進められた「尼寺」である。所謂、現在の日本の家庭裁判所というところか。
「東慶寺」は北条時宗夫人・覚山尼(かくさんに)が開山した寺院で、こ寺院は縁切寺、駆込寺で知られている古刹で、「縁切寺法」という制度を定めたのもやはり覚山尼だという。
室町時代の五山制度にならって設けられた「尼五山」と呼ばれる尼寺が京都及び鎌倉に五ヶ寺ずつあったという。
鎌倉では東慶寺が尼五山の第二位にあったが、現存しているのは当山のみで、ほかは廃寺になっているらしい。
東慶寺・住職は代々の名門の息女が名を連ね、特に後醍醐天皇の皇女が住職になられてから、この土地の名にちなんで「松ヶ岡御所」と呼ばれ、現在、この地域を「松ヶ岡」と称している。
又、大阪夏の陣で豊臣方が滅亡し徳川天下になった折、太閤秀吉の孫にあたる豊臣秀頼の娘は豊臣家が滅亡する中、家康に許されて当山に入寺し、後に「天秀尼」となって住職を継ぐことになる。
この時、家康公から「何か願いはないか」と聞かれ、天秀尼は「開山よりの御寺法を断絶しないようにして頂ければ」と答えたという。
これが許されて、この「縁切寺法」に基ずく調停、仲裁、決裁は明治6年まで存続したと言う。
女性からの家庭内騒動の請求が法律で認められるようになるまで、実に600年の長きにわたって存在し続けたのである。
鎌倉街道を挟み、ほぼ円覚寺の正面に在って、往時は円覚寺をも凌ぐほどの隆盛を極めた寺院だったが、今では尼寺の風情を残した穏やかな寺仏堂と梅の木や花一面におおわれる境内が、僅かにその面影を偲んでいる。
次回は、 「常楽寺」
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