google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本の世界遺産紀行;日光編: 古都鎌倉(6) 「白旗・法華堂と頼朝の墓」

2012年2月29日水曜日

古都鎌倉(6) 「白旗・法華堂と頼朝の墓」

「鎌倉は世界遺産推薦地として記載しています。」






  古都鎌倉(6) 「白旗・法華堂と頼朝の墓」   。




写真:源頼朝の墓


八幡宮、白旗宮からさらに東へ歩で5分ほど。
清泉女学院小学校の辺りは、往時「大倉御所」と称して征夷大将軍源頼朝の屋形であった。

更に小さな案内札を頼りに辿り着いたところ、やや急な石段を登ると五輪塔がある。
周囲は、覆う樹木による冷たい空気が身を引き締める。
そこに「法華堂」(白旗社)と「頼朝の墓」がある。 


八幡宮を含めたこの辺り一帯は、幕府を開いた源頼朝の夢の跡である。


頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたのは1192年で、47歳の時であった。
平安時代末期に河内源氏の棟梁である源義朝の三男として京都に生まれている。

源平合戦・平治の乱で源氏は敗退し、頼朝は清盛への嘆願かなって13歳で伊豆へ流される、頼朝の源平合戦と呼ばれる諸戦役で最初の戦いに敗れた「石橋山の戦」いは33歳であった。

頼朝が征夷大将軍となって7年後、御家人・稲毛重成が亡妻の追善供養のため相模川に架橋し、頼朝はその落成式に出席したが、その僅か27日後に死亡している。

相模川の橋の落成式の帰途、頼朝が乗馬していた馬が暴れ、落馬した折に頭部を強打したことが原因で死亡したというのが一般的のようである。 

武家の棟梁である頼朝が落馬したというのは、少々考え難いが、落馬したということ自体は事実のようである。

落馬の原因については諸説あるようだが、その中でも脳溢血を起こして落馬したのではないかという説が最も有力であろうと考えられている。


また俗説によると頼朝の乗っていた馬が雷の音に驚き一散に走り出したため、頼朝は河原に投げ出され、石にあたって絶命したともいわれる。 
馬はなおも走り止まらず相模川に入水したしまった、以来この川を通称「馬入川」と呼ぶようになったと。
確かに小生の住む厚木市の相模川は、平塚市に入ると「馬入川」と称し、国道1号線に架かる橋を「馬入橋」とも呼んでいる。


頼朝の治世は僅か20年、征夷大将軍として7年、享年53歳であった。
頼朝の墓は大倉山の裾に今も静かに眠っている。

大倉山にある清泉女学院小の校歌に「英雄墓は苔むして・・・」唄われているが、2m足らずの五輪塔で、明治維新にいたるまでの690年の武家政治を築いた英傑の墓というには、あまりに寂しい佇まいにも思える。  

墓下にある「白旗社」は今も頼朝を鎮護している。


次回も、「頼朝重臣達の墓




【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





0 件のコメント:

コメントを投稿

01. 15.

トラッキング